苦しみについて

風の道・・・つれづれに・・・



 第13回 苦しみについて

 寺で生まれ育ってしまうと、仏教との思想的出会いは遅くなってしまうものである。幼少の頃から、生活としてすでに存在しているので、客観的に接触する機会がかえってないのである。

 だから、仏教経典の言葉に本格的にふれたのは、高校の倫理の時間でだった。

 初めて出会った言葉は次のようなものだった。

 「生は苦しみである。老いは苦しみである。病は苦しみである。  死は苦しみである。愛する人と別れるのは苦しみである。怨み憎む者と出会うのは苦しみである。求めるものを得られないのは苦しみである。つまり、すべてが苦しみである」

 なんて悲観的な考え方なんだろうと思った。すべてが苦しみだなんて、世界をすべて黒で塗り潰してしまうようなものだと感じた。

 でも、仏教は、悲観主義だけなのだろうか。

 黒澤明監督の「生きる」という映画がある。この映画の主人公は市役所の無気力の塊のような課長さんである。自分のところにまわってくる書類を、内容を見もせずにひたすら機械的にはんこを押していくそんな人物である。

 しかし、彼は、ある日自分が胃がんであることを知ってしまう。 落ち込んだ彼は、飲めもしないお酒を飲みに、今まで一度も立ち寄ったことのない歓楽街に出かけるのである。

 そこで偶然出会った作家に悩みを打ち明けると、作家は彼にこう言った。

 「病というのは貴いものですな。病はあなたの人生への眼を開かせてくれた」

 この科白の「病」の部分を、「苦しみ」に置き換えてもいいように思う。

 彼は、その作家に連れられ、夜の歓楽街で戸惑いながら遊び歩くのだが、何か満たされなかった。  そして、一週間ぶりに出勤した役所のデスクの上に、市の主婦グループが提出した、子供のための公園建設嘆願書を見つけるのである。

 映画はここで、主人公の通夜のシーンとなる。通夜に出席している人たちの口から、主人公がいかに公園建設のために身を粉にして活動したかが語られる。

 何度断られても、助役室や市長室に公園建設の直訴におもむく主人公の姿。公園建設がとうとう決まり、工事現場で幸せそうに作業を見ている主人公の表情。それらを出席した人たちが、愛惜をこめて語るのである。

 そこへ、警官がやってきた。そして語った。雪の夜、パトロールをしていたら、その日完成した公園のブランコで、誰かがブランコに揺られながら、歌をうたっていた。「いのち短し 恋せよ乙女」という「ゴンドラの歌」だった。その歌声がとてもしみじみとしたいい声だった、と。

 それは、主人公の歌う「ゴンドラの歌」だったのである。公園完成の夜、雪の中で彼は一人ブランコに揺られ歌っていたのだ。

 人の幸不幸は簡単にははかれない。第三者からみて、その人がどれほど困難な状況にあったとしても、幸福を感じることはできるし、どんなに恵まれた状況に身を置いていても、不幸なことはある。

 しかし、主人公の歌声が、通りすがりの警官の胸に響くものであったことから、彼が幸せであったか、不幸せであったかは、自ずとわかってくるだろう。

 主人公にとっての「病」という苦しみは、輝いて生きるための起爆剤となった。もちろん「病」は重く私たちにのしかかる。もしかしたら耐えられないことがあるかもしれない。

 しかし、それでもなお、前に進んでいく生き方を、この映画は示しているのである。

 「すべては苦しみである」ということばは、悲観主義ではない。

 ましてや「仕方がないんだ」というあきらめや、一方的に我慢を押しつけ、現状に甘んじることを強いる忍従強要主義でもない。それは、厳しい認識に裏付けられた透徹した生きる姿勢であり、ともす れば挫けてしまいそうな私たちに覚悟を促し、励ましていることばなのである。


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