ブッダと30人の若者たち

風の道・・・つれづれに・・・



第14回 ブッダと30人の若者たち

 仏典にこんな話がある。

 ブッダがさとりを得て間もなくの頃のこと。ブッダはバーラーナシー(ベナレス)からウルヴェーラという都市へ移動する道中、道 から離れた森に立ち奇つて、一本の樹のもとに坐した。

 ちょうどその時、森では三十人の若者たちが、それぞれの妻をともない遊んでいた。その中の一人は独身であったので、妻ではなく 遊び女をつれてきていた。

 若者たちは我を忘れて遊んでいたが、その間にかの遊び女は、彼らの持ち物を盗つて逃げた。彼らは、それを知って、あわてて森の 中を探し回った。

 彼らは、樹のもとに坐しているブツタを見て、近づいて尋ねた。
  「世尊よ、一人の女を見なかったか」

  「なんじらは、女を探して何としようとするのであるか」

 ブッダの問いに、彼らは持ち物を盗って逃げた女を探している事情を語った。

 ブッダはその由を聞き彼らに言った。
  「なんじらは、いかに思うか。女をたずねると、己れをたずねると、いずれが大事であるか」

 彼らは、こう答えた。
  「それは、己れをたずねることが大事である」

 「なんじら、しからば、ここに坐するがよい。わたしはなんじらのために法を説くであろう」

 彼らは、ブッダを拝し、そこに坐した。
 ブッダは、彼らのために、次第をおうて法を説いた。その説法に若者たちは、真理の眼を生じ、ブッダに帰依をしたという。

 このエピソードに接し、私は少し頬をゆるませてしまった。ブッダの若者たちへの問いが、あまりにも唐突だったからである。
 実際に自分が若者たちの立場になってみる。例え相手が遊行の修行者だったとしても、血眼になって自分の金品を持ち去った遊び女を探しているときに、「女をたずねるのと、己れをたずねるのとどつちが大事なのか」と逆に尋ねられたとしたら、「おいおい、勘弁してくれよ、それどころじゃないんだよ」とツッコミを入れたくなるだろう。

 けれど、驚いたことに若者たちはこう答えているのである。
  「それは、己れをたずねることが大事である」

 私は、ゆるんでいた頬を引き締めた。
 このエピソードの若者たちは、若さを謳歌し遊びに耽っている、どちらかといえば亨楽的な人間として描かれている。しかし、この若者たちは、ブッダの選択をせまる問いに、哲学的な回答を選んでいる。

 哲学的な回答を瞬時に選ぶことができるということは、平素から少なからず、それらの命題について思索をしているということである。そのような下地がなけれは、ためらうことなく遊び女を追いかけているに違いない。

 ブッダの生きていた時代の社会には、全体に哲学的な雰囲気があったとは聞いていた。自由思想家が多く現われ、王侯貴族たちは彼 らに積極的に教えを求めたということは知っていた。

 しかし、森で遊ぶ若者たちも例外ではなかったことを、私はこの話によって、初めて知ったのであった。

 私は、若者たちのようには、答えられないだろう。そう答えるには、心が浅くなっている。
 けど、だからこそ、「己れをたずねることが大事」なのだと、この話は私に示してくれているような気がする。

 仏教はまず自己の存在の省察を求める。いや、それに尽きるものなのかもしれない。
 ブッダは「次第をおうて説いた」とある。きっちりと、明快に、順序だてて、丁寧に説いたブッダのことばを、若者たちは真摯に受けとめ、仏教徒となった。

 まず私は、平素の思索の下地をつくるところから、始めなければならないだろう。でなければきっと、「次第をおうて説いた」ブッタのことばの中に流れる清冽な水脈を、ほんとうに汲み取ることはできないだろうから。


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