バベットの晩餐会もしくは釈尊の乳粥

風の道・・・つれづれに・・・


第19回 バベットの晩餐会もしくは釈尊の乳粥(にゅうび)

 曹洞宗の開祖道元禅師の著書に、『典座教訓(てんぞきょうくん)』『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』というものがある。

 ここには、食事に関する事細かな儀則が網羅されている。食事も重要な修行の一つであるから決して疎(おろそ)かにしてはいけない、という禅師の立場が如実に示されている。実際、筆者も僧堂での修行時代に非常に苦労したものである。細部まで徹底して決めてある作法を、しっかりと行わなくてはならないのである。

 ああ、どうしてこんなことしなきやならないんだろうと嘆息していた。

 実は私は、映画がそれこそ三度の食事より好きである。その私が「食事」と聞いてまず思い出す映画が「バベットの晩餐会」である。

 この映画は、デンマークの女流作家カレン・ブリクセンの小説が原作となっている。北欧の寒村に住む老姉妹のもとに、一人の女性が訪ねてくるところから映画は始まる。この老姉妹の父は敬度なキリスト教の伝道師であった。村の人々は彼を驚く敬い、二人の娘は父の亡き後教会を守り、遂に結婚をすることなく、質素な生活を営んでいた。そこへ、バベットという名の女性が現れ、召使いとして置いてほしいと頼んできた。財政的に人を雇う余裕はなかったから、老姉妹は丁重に断ったのだが、バベットは無給でいいからと重ねて頼み、結局彼女は、召使いとして働くことになった。

 バベツトは手際の良い家事の采配をふるい、倹約生活の中においても、その理知によって、質素な家の中に、穏やかにして華やかな香りをもたらした。彼女は老姉妹にとってかけがえのない人になっていった。  実はバベツトは、ささやかな楽しみとして、毎年自分の貯えの中から宝くじを買っていた。その宝くじが、ある年当たったのである。それも一万フランも。

 それを知った老姉妹はバベツトが家から去っていくことを覚悟した。しかし、バベツトは是非自分の采配で晩餐会を開かせてほしいと言った。

 彼女の料理は最高のものだった。最初は慣れない食材を見て警戒していた村の人たちだが、コースが進むにつれ、普段から諍(いさか)いのあった者同士が肩を抱き合い喜び合ったり、鬱(ふさ)いでいた者が心を開いた。真に素晴らしい食事が人の心を感動させるということが、魅力的に描かれている。

 そして、私が注目したいのは、食事が終わり村人達が笑いのうちに帰宅の途についた後、バベットが厨房で一人コーヒーを飲むところである。バベットはパリのフレンチレストランの高名な料理長(シェフ)だったのだ。しかし、革命の嵐にまきこまれ、デンマークの寒村に身を寄せたのである。彼女はこれまでお世話になった村の人たちに、精一杯の感謝の料理を、一人の芸術家として創作し、提供したのだ。宝くじの一万フランは、この晩餐会のために使い切ってしまった。

 しかし、バベットの心は豊かな気持ちに満たされていたのではないだろうか。 自分の芸術家としての仕事をなしきった充実感。バベツトが一人飲むコーヒーの味は、得も言われぬものだったに違いない。

 実は釈尊にも、バベットのコーヒーと同じものがある。

 釈尊は出家の後、六年間の苦行の生活に入る。窒息寸前まで息を止める止息の行や、断食の行など凄まじい苦行を行った。しかし、これは真理に至る道ではないと気づき、釈尊は苦行林を出る。ネーランジャラーという川で沐浴をし体を潜め、川を上がると、近隣の村の娘スジャーターが乳粥を差し出した。釈尊はこれを飲んだ。乳粥の味は釈尊の乾いた体と心の隅々までしみ通るものだ ったに違いないのでである。美味とか美味でないとかというところを遥かに超えたものだったろう。釈尊はこの一週間後さとりを開かれるのだ。

 釈尊の乳粥も、バベットのコーヒーも、かけがえのないものである。食材の優劣ではない心の味と言うべきものを十全に感じ取っている。心のありようが肝要なのである。

 実は、僧堂の額項とも感じられる食事作法もそうではないのだろうか。食事を始める前に私たちは「五観の偈(ごかんのげ)」というものを唱える。「この食事にどのくらいの労力が翼やされているか」「この食事を頂く資格が私にあるのか」「貪りを離れているか」「体を療ずるために食すのだ」「仏道を成すために頂くのだ」というような内容の偈を唱和する。すると、眼前の食事がかけがえのないものに変じていくのだ。その時、僧堂の食事はバベットのコーヒーであり、釈尊の乳粥となっているのである。

 私たちは普段、つい漫然と食事を食べてしまっている。しかし、釈尊とバベットは、私たちの心のありようによって、ひとつひとつの食事がバベットのコーヒー、釈尊の乳粥となることを教えている。


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