ふたたびの旅立ち

風の道・・・つれづれに・・・



 第2回 ふたたびの旅立ち 

 私たち日本人の多くは仏教徒である。

 しかし、それは一人一人が様々な苦悩や迷い、悲しみを味わった後に選び取ったものではなく、生まれた家の宗教が仏教であったことに拠るのである。

 日本のクリスチャンの多くが主体的に、或いは自覚的に洗礼を受け、明確な意識を持って信仰に生きていることを書籍や身近なキリスト教信者を通して知り、私は羨望を抱いていた。

 そんな時、私は一冊の書物と出会った。『旅立ちの朝に』というキリスト教作家の曽野綾子氏と、上智大学のアルフォンス・デーケン教授との往復書簡集である。

 私の胸を打ったのは、「敵の兵士に手を差し伸べた日」という、デーケン教授の記した書簡だった。教授は、北ドイツの街で生まれ、多くのヨーロッパの人々と同じように幼児受洗をし、クリスチャンとなる。そして丁度小学生の時に第二次世界大戦を経験することになる。

 多くの戦争映画がドイツ軍を悪とし、連合軍を正義として描いているが、大戦末期の連合軍がドイツ領内に侵攻してきた時、映画の中のドイツ軍の行状を当に連合軍が行なっていたことを教授の書簡は示している。

 無差別爆撃、逃げ惑う下校途中の子供たちへの情け容赦無い機銃掃射が行われ、デーケン少年は多くの友人を亡くしている。一方が正義で、一方が悪であるという見方は現実を示していない。人間の残虐性が剥き出しになる戦争の真実を捉えているものではないと、教授は語っている。

 そしてドイツは降伏し、連合軍がデーケン少年の街に占領軍としてやってきた。戦時中、デーケン少年の祖父は反ナチ抵抗運動に進んで参加し、文字どおり命をかけてナチスと渡り合い、連合軍がドイツを開放することを心待ちにしていた。

 侵攻当日、祖父は白旗を掲げ、連合軍の戦車を手を振って迎えた。その時に、デーケン少年の前で信じられないことが起こった。連合軍の戦車は、祖父に向けて機銃を掃射したのである。

 さっきまで歓喜の中で手を振っていた祖父は、祖父が開放の旗手として信じていた連合軍の放った機関銃の銃弾に倒れたのである。

 デーケン少年は部屋に戻り、激しい内心の葛藤を覚えた。日頃心の支えにしていた聖書の中に「汝の敵を愛せよ」という教えがある。この教えを守ることが出来るのだろうか。祖父を無意味な死に至らしめた、あの敵の兵士たちを愛することが出来るのだろうか。

 連合軍兵士が近くの家々の中を探りながら自分の家に近づいて来る。僕はどうすればいいのか・・・・

 兵士が家の中に入ってきた。

 この中に先刻祖父を射殺した者がいるかも知れない。デーケン少年は胸の高鳴るのを押さえながら微笑みを浮かべ、兵士に手を差し伸べて言った。

Welcome! ようこそ・・・と。

 教授はこの時が、自分が真のキリスト者になった瞬間だったと振り返っている。

 幼い時に受け身の形で与えられた信仰では、やはり不十分であり、真に自分の信仰とするために何らかの主体的決断をなさなければならないのだ、と静かに語っている。

 私たちもそうではないだろうか。幼い時に受け身の形で与えられる点で、ヨーロッパにおいてのキリスト教と日本における仏教とは、ほぼ共通している。私たちも自らを仏教徒と呼ぶのならば、デーケン教授の「敵に手を差し伸べた」決断のごとく、ふたたびの旅立ちをしなければならない。

 真に仏教を選び取るために。

 真に仏教徒となるために。


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