正座はつらい

風の道・・・つれづれに・・・



 第34回 正座はつらい

 寺の行事といえば、正座がつきものである。葬儀・法事など、思っただけでも、みなさん怖気をふるうにちがいない。ことほどに、長時間の正座はつらいものだ。

 人によって差はあるが、それぞれに任意の時間を越えると足の感覚が皆無となり、つねっても何も感じなくなる。その頃に決まって、お焼香となる。慌てて立とうとすると、足が脛のラインと一直線になっており、畳を何度も指先で摺るだけで、なかなか立つことが出来ない。無理をすると、挫いてしまう。あるいは、前方にバタンとダイビングをすることになる。正座は結構危険なのだ。

 坊さん達が長時間の正座の後、涼しげな顔をして立ち上がるのを、みなさん見たことがあるだろう。さぞかし修行を積んで、足のしびれを克服しているよに思えるだろうが、実はかなりしぴれているのである(他の人は違うかもしれないが、私はそうである)。立ち上がり方にコツがあり、しびれを顔に出さないだけなのだ。

 まず、両足を少し浮かし、何とか頑張って両指の腹を畳に接地させる。畳に引っかけるという感じだろうか。それから徐々に全体の重心を後ろに持っていく。踵の上におしりをゆっくりと載っけていく要領である。それをちょっとの間行えば、少なくとも畳にダイビングは避けることが出来る。それからゆっくり。と立ち上がって、足の神経と顔の神経を遮断すれば(つまり表情に出さなければ)合格である。  さすれば、なにゆえにこれほど苦しい姿勢をとらなければならないのか。答えは明快である。足の圧迫を除けば、これほど体にいい姿勢はない。背骨がまっすぐ伸びるからだ。正座の意義はこれにつきる。

 「威儀即仏法」という禅語がある。これは「かっこうそのままが仏法である」という意だ。形から入れ、ということなのである。事を行う時、意欲満々という状態をいつも保っている、という人は少ないだろう。怠惰、無気力など、いろいろなブレーキとなる心が、必ず湧き出てくる。しかし、まず形を身につけ、それを習慣化することが出来ていれば、私たちの心は、形に規定され、ととのえられていく。ととのえられた心は、今度は形を規定し、形をよりしっかりとしたものにしていく。このような相関関係が生まれてくれば、しめたものである。もちろん、ただ形だけやりゃいいや、という思いは論外である。怠惰.無気力に引きずられながら、なおそれらを超克しようという思いがなければならないのだ。

 でも、やっぱり正座はつらい。脂汗をかきながら、やっぱり心の中でうんうんうなっている、私である。


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