永野郷土史 無土器時代

一、古代の永野

 

1 無土器時代

 

石器時代の年代区分

前期旧石器時代 約3万年以上前
中石器時代または
晩期旧石器時代
約1万3000年前~3万年前
後期旧石器時代 約1万年前~1万3000年前
新石器時代
(縄文時代)
約2600年前~1万年前


 いまからおおよそ100万年から一万年前の洪積世 に地球上は少なくとも四回のきびしい氷期にみまわれま した。その間数万年ないし十数万年を周期として寒冷な氷期と温暖な間氷期とがくりかえされました。本州が氷河に覆われた形跡は、高山地帯をのぞいてはなかったようですが、現在の気温よりずっと低かったようです。
 寒冷な氷期には水蒸気の還元が許されず、したがって海水面が下降します。寒冷期に海水面の下降がもっとも著しい時期には海水面が百数十メートルも下降したといわれています。幾たびかくりかえされた海水面の下降の一時期には、本州と大陸が陸続きかそれに近くなり、この間に大陸から動物を追った人類が渡来したと考えられています。それはいまから20~30万年前にさかのぼるだろうといわれています。

 やがて寒冷期もすぎ氷河が溶けだす洪積世の終わりごろになると地殻変動が活発になり、火山も盛んに活動するようになります。そのころの永野は海進、海退によって見えかくれしていた陸地が、地殻の隆起と火山灰の堆積とでできた陸丘がはげしく浸食されて谷をつくり、丘陵を形成します。多摩丘陵からのびひろがる低丘陵の最南端に永野が位していますが、その主陵は武相境で、大岡川をはさんで三浦丘陵に続いています。地質的には第三紀鮮新世のドナウ氷期にさかのぼり、三浦層群の上にのっています。基盤の線灰色をした中里泥岩層は、純黒潮型の海成層で100万年以上も前に堆積したものといわれ、暖海性の貝化石を含んでいます。その上層は屏風が浦層で、中里層が海退によって浸食され、深くえぐられた上にその後の海進によって堆積し、河口性の貝化石や亜炭、埋れ木を含んでのっています。開発途上の上永谷中里丘陵の基盤の屏風が浦層からは暖流性のハイガイや、ウミニナ、ホトトギスガイ、シズクガイ、ユウシオガイ、ブドウガイなどの貝化石が約20種類ほど出ています。

 特に貝化石は生息していた状態で二枚貝の合わさったままのものや、色彩を保っている見化石もあり、大船湾の入江がこのあたりまで浸入していたことと、カモノアシガイが生息していたことは、当時の状況を知るうえで貴重な資料となっています。ちなみにいままでの発見例時戸塚区下倉田町あたりまでとされていました。その上層の下末吉相当層からは、一かかえもある根付つきの埋れ木が出ています。

 上野庭に露出している亜炭層は、屏風が浦層に属し、芹が谷県営住宅裏がけ、般若寺坂横がけ、有華寺台などの化石床に寒流河口性のナガガキを主とする貝化石や埋れ木、クルミの核などが認められています。ナガガキの化石床は海抜30メートルあたりで、当時渚であったことを示し、潮流の変化や、泥や砂が堆積して化石となったものです。小規模の海進、海退はいく度かくりかえされながら、屏風が浦層の上に多摩ローム層が堆積し、その上層の下末書層は植物化石から寒冷期に堆積したことを示し、下末書層の上部は浅海にすむ暖海性の貝化石を含んでいますが海洋火山の堆積層であるともいわれてます。その上層は、古箱根山の火山灰堆積層といわれている武蔵野ローム層で、貝化石、埋れ木を含んでいます。立川ローム層がその上にのっていますが、立川ローム層の供給源は古富士の火山灰土といわれています。

 私たちが、がけや段丘でみかけている赤土は、箱根火山や古富士、伊豆連山な どの噴火でふき上げられた火山灰が偏西風で運ばれ地上に降り積ったものが、永い間に粘土化し、火山灰に含 まれた鉄分が酸化して赤土になったものです。この火山灰層は広く関東一円に分布しているところから、これを通称関東ローム層とよんでいます。

 以前は〝ローム層中には旧石器時代の遺物は存在しない″ということが考古学者の定説になっていました。またそれらしい石器が発見されても定説にはなりませんでした。それはローム層が火山灰であるという固定観念から、こぶしほどもある岩石が関東の中心部まで飛来することはまず考えられなかったことと、太陽をさえぎるような火山灰の降るなかでは生物すらすめなかったと考えられたからでした。昭和24年9月に町の考古学者相沢忠洋氏によって、群馬県新田郡笠懸村岩宿の切通しのローム層中から日本で最初に旧石器が発見され、これが発端となり日本の旧石器研究が開眼し、その後の研究によって、ほぼ国内にひろく遺跡が分布していることがわかってきました。

 洪積世を氷河時代とよんでいるように、旧石器時代に属する無土器文化の遺跡が発見されるのは実にこの火山灰層の立川ローム層ま たは武蔵野ローム層からです。
 土器がまだ使用されなかった時代なので、すなわち無土器時代または先土器時代とよばれています。

 立川ローム層は一万年以上も経ていると考えられるのでその下層になるにしたがって年代が古くなります。栃木県の星野遺跡は下末吉ローム層中にあったといわれ、出土した握槌の石器は10万年も前のものといわれています。横浜市内の無土器時代の遺跡では戸塚区瀬谷本郷・港北区日吉本町・神奈川区羽沢東泉寺などで、立川ローム層中から礫器や石槍(ポイント)が発見されています。

 永野における無土器文化時代の遺跡の確証はつかめていませんが、しいてあげれば上永谷町(上野庭)西洗台4400番地付近のローム層中から無土器時代のものとおぼしき黒曜石の石槍が発見されています。場所は舞岡町に通ずる峠にあたるところです。石槍(ポイント)は長さ31センチほどで、断面が菱形をしていてよく整っていました。現立教大学助教授岡本勇氏の見識によれば、縄文時代に黒曜石の石槍はあまり用いられていなかったところから旧石器に属する無土器時代のものであろうとのことです。昭和45年秋、同地点と思われるところから、こぶし大の自然礫が立川ローム層中1メートルから発見 されました。石槍と関連がありそうです。上永谷町永作の武相境は、いま住宅地になっていますが、入口にあたるローム層中1.5メートルから卵大の自然石とほぼ二倍大の加工がうかがえる礫石一個が発見されています。

 無土器時代人のすみかは、当時の自然環境から見晴しのきく丘陵上に営まれた場合が多く、近くに飲料水が得られ、また食糧源である動物のうごきや植物の状況が見渡せるような陵線付近と推測されます。
 西洗台や永作台は、彼ら無土器時代人のすみかには格好の場所だったにしろ、はげしい風雨にさらされる丘陵上での生活は至って不安定であったと考えられます。無土器時代では、ある一定の場所に永く定住できなかったようで、自然が拒めば移動し、ある期間または季節に応じて食糧を求めながら移動していたと考えられますので、遺跡にのこされた遺物はきわめて少ないようです。



 

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